祭典日
- 1月1日
- 元旦祭
- 1月25日
- 初天神講大祭・新春書道展
- 2月3日
- 節分祭・厄除祈願祭・筆祭
- 3月20日頃
- 春祭(祈年祭)
- 5月25日
- 天神講大祭・奉納行事
- 7月第1土曜日
- 夏祭り、夏越しの大祓(茅の輪くぐり)
- 9月第2土曜日
- (二百廿日)境内豊受神社豊年祭
- 9月25日
- 天神講大祭・福引
- 10月第2日曜日
- 例大祭・神幸式
(毛槍を先頭に大名行列形式の神幸式で賑わいます)
- 11月15日
- 七五三祭
- 11月23日頃
- 新嘗祭
- 12月31日
- 年越しの大祓
- 毎月 1日・15日
- 月並祭
- 毎月 25日
- 天神講社祭
随時、初宮参り・安産祈願・七五三詣・学業成就・家内安全・厄除け・交通安全・地鎮祭・竣工式など諸祈願をいたします。
釜鳴り神事について
主祭神の菅原道真公にちなんで氏子崇敬者380人を講員とする天神講社を組織しており、毎年1月、5月、9月の各25日午後1時半から天神講社大祭を開催しています。1月の初天神講では、廿日市市内の小・中学生の新春書道展、5月は講演や芸能の奉納、9月には福引を行っている講社大祭では、「釜鳴り神事」をお仕えしています。大祭の次第は、大祓詞を斉唱の後、釜鳴り神事に移ります。釜鳴りの祝詞につづき、斎主が沸騰したお釜の上に据えた桶にお洗米を撒き入れ、しばらくすると釜全体が鳴動し始めます。この釜鳴りの音の大きさと長さで吉兆を占うのです。参列者はお釜の前に進んで、お釜から立ち上る湯気を手に受け、身体を撫でて無病息災を祈願します。その後、直会ではお釜のお湯と蒸した洗米を戴きます。
「新春書道展」について
廿日市天満宮の「新春書道展」は1月25日開催の天神講大祭において奉納される行事です。
この「新春書道展」は戦前より廿日市町内の小学校・中学校の生徒を対象に開催されてきました。 戦後途絶えていましたが、町内の皆様からの強い要望もあり、児童・生徒の学芸の上達を図るため、「廿日市市美術協会」と「廿日市町観光協会」の協賛をうけ、昭和50年代の初めに復活しました。
その当時、特に廿日市町観光協会の方々が書道展の復活に御尽力され、「筆祭り」には熊野町の筆作りの実演もあり、「筆祭り」も行われるようになりました。
現在は、廿日市市内(旧大野町、佐伯町、吉和村を含む)の小学生・中学生の約3千名が参加し、恒例の年中行事となっています。
天満宮の御祭礼(みこし行列)の由来
廿日市天満宮の創建は古く、鎌倉時代の天福元年(1233年)厳島神社の神主に任命された藤原親実公により、鎌倉の荏柄天神社を勧請して、藤原氏の守護神として、篠尾山に祀られたのにはじまり、藤原氏はその後十五代も続いて廿日市の桜尾城に居城し、町も港も栄える基を開かれました。
天文二年(1533年)周防の大内氏に討たれて断絶し、しばらく天満宮の祭礼、神事は厳島の神官によって行われましたが、その後百年間神主不在にて、社殿も転倒するほどになったのを、慶安五年(1652年)町の人々の寄進によって、社殿も再興され町の氏神として祀るようになりました。 それまでは町の人々は、今の胡子通りより西は、下平良の新宮神社の氏子で、又胡子通りより東は、佐方の八幡神社の氏子でしたので、それまで氏神様であった新宮神社と八幡神社のご祭神も、天満宮に合わせお祀りしました。
みこしの御祭礼の起源は、はっきりしませんが、江戸時代の文政二年(1819年)に書かれた史料(廿日市町史)によると、天満宮の祭礼は、前日より市中で、獅子舞を行い、夜は神楽舞を行い、当日は神輿三座で御旅所の下平良の新宮神社へ御幸、行列は先頭に榊台、猿田彦(ハナ)、花車、弓、鉄砲、鉾、随神、神輿、神主、笛、太鼓、供奉の氏子は裃にてお供云々、と記され、大変賑やかな行列であったことを記しています。
それで今でもみこしは、天満宮、新宮、八幡の紋を入れた三座があり、秋祭りには、元の氏子区域の東町を通り、お旅所の新宮神社へ御幸されます。
大名行列の形式は、廿日市が大名の泊まる本陣があり、到着と出発の時には、毛槍を先頭に大名行列が行われたのを手伝い、習ったものと思われます。 今もその伝統が奴組連中により守られています。
天満宮の最大の行事である秋祭りの祭礼は、氏子の皆様の参加とご協力によって、将来へ継承していきたいと存じます。 よろしくお願いいたします。